2022年10月28日

「発酵すること」と「考えること」

藤原辰史(歴史学者)

 

 

近代社会は待つことを省略することで発展を遂げてきた。
次に出発する列車を待つことができないために、発車時刻の間隔が狭まり、列車の速度が急速に進歩した。じっくりと料理をする時間がもったいなくて、即席の食品が大量に開発された。公衆電話を見つけるまでの時間を削りたくて、携帯電話が普及し始めた。調べものをしに図書館に行くまで知ることを待てないために、インターネットで調べるようになった。家畜の糞尿と藁を重ねて腐熟させるのに時間がかかるので、化学肥料が大量に生産されている。

 

たしかに、時短は重要である。それは豊かな時間を私たちに与えてくれる。待つ必要のないことをただ漫然と待っていることに、私たちは耐えられない。私たちの人生は限られているからだ。

 

それにしても、私たちはあまりにも待つことに耐えられなくなった。待ちぼうけができなくなった。待ち合わせの場所で本を読んで、じっくりと空いた時間を味わう心の余裕が少なくなった。他人や自然に頼らず、自分でなんでも解決しようとするようになった。

 

私たちが発酵現象に魅せられるのは、実はこんな不幸な時代の象徴なのかもしれない。発酵の世界では、人間はその起こりうることへの介入が限定的である。微生物の気分と天候の状況次第、というところが多い。どんな香りや味わいが出てくるか、どれほど熟練の杜氏やチーズ職人でも完璧に予測することはできない。人事を尽くして天命を待つ。酒にせよ、醤油にせよ、味噌にせよ、パンにせよ、納豆にせよ、発酵は待つしかない。醸すとは、ひたすら待つことを許容することである。

 

しかし、これは食べものに限らない。私たちは思考のモデルをインプットとアウトプットというコンピューター用語に置き換えすぎてきたのではないか。思考のモデルとは、発酵ではなかったか。仕込んで、寝かせて、湧くのを待つ、という発酵のモデルを私たちは見失ってきたのではないか。思いつきではなく、付け焼き刃でもなく、結果を焦らずじっくり糠床に漬けた思考が弱ければ弱いほど、即断、即決、即行動の世界が私たちを覆う。漬け込んだ思考は、思いつきの思考よりも、保存が効き、香りも高く、腐敗に強い。科学技術の発展に自分の時間感覚までも失ってはならない。

 

「急げ、止まるな、起きろ」に疲れた社会は「待て、焦るな、寝かせろ」という発酵的態度を欲している。