2022年7月21日

「これから生まれる子どもたちのための食の空間」

藤原辰史(歴史学者)

 

 

暗くて狭い洞窟を肩を脱臼させてにじり出てきた血まみれの君は、この世の光を初めて浴び、肺に初めて入り込むたっぷりの空気に驚いて、泣き声を上げる。おめでとう、これが君の生きる世界だ。やさしさに満ちた世界へようこそ。もう怖くない。君を待つ世界は、たくさんの先輩たちによって祝福されている。

 

と、私は、これから世界に生まれてくる子どもたちみんなに心の底から伝えたいのだ。けれども、そう言い切れない。残酷な世界だ。なぜなら、初めて浴びた光は赤子の生をうらなう化石燃料由来の電気によるものだからであり、化石燃料は大気汚染や地球温暖化をもたらし、初めて吸った空気は排気ガスで汚染されているかも知れないからだ。

 

いや、こんなことは次のことと比べると軽い。この世はやさしさと楽しさが満ちてはいない。地球を支配しているのは競争の過激化と、その結果としての冷淡さだ。言葉より手が先に出る腕力の世界であり、泣き声を兵器の音が掻き消す世界だ。たとえば、シリアやウクライナなど世界各地の紛争地やそこから逃れて辿りついた難民キャンプで生まれた子どもたちにとって、生きのびることは簡単ではない。生まれた場所がせめてやさしさに満ちていることが私たち大人の責務であるのに、私たちはそんな場所を、これから生まれてくる子どもたちに用意し損ねてばかりいる。胎児の視点に立ってみると、この世の中の矛盾がより濃く映る。

 

そもそも、胎児にとって、「食べもの」とは、ヘソの緒を通じて母体から流れてくる純粋な贈与だった。母が食べたものがそのまま胎児の食べものであるので、母は食べものそのものであった。乳児にとっての母乳も、母の栄養豊富な体液であるゆえに、やはり母そのものであった。また、言葉を覚えたての子どもが、「ママ」という言葉をとても早い段階で覚えるのは母乳を吸う口の動きと「ママ」という発語の口の動きが似ているからだという説があるように、子どもを守り育てるものは、そのまま、食べものを分け与えるものであり、食べものそのものでさえあるのだ。

 

ならば、そんな経験から数年も、あるいは一〇年も経たない子どもたちにとっても、食べものとケアをする人が一体となるような純粋贈与の空間は、やはり根源的に必要だといえる。とはいえ、さきほど述べたようなこの世界は、生まれてきた子どもたち全員に満足に食べさせるような仕組みになっていない。家族の戦死、家族の餓死、家族の暴力が世界中で問題となっていて、家族が必ずしも安定したケアの空間ではもはやない。それゆえに、私たち大人自身が、食べもののような存在の大人にならなければならない。純粋な贈与とは、お礼を必要としない。税金を使っているという罪悪感もうしろめたさも不要である。たとえば、どうして、市役所に助けを求めにやってきた人たちが、安心するように、市役所のホールに無料の水と無料のおにぎりが随時準備してないのだろうか。どうして、夏休みに給食がストップし、満足にご飯が食べられない子どもたちに、給食調理場は開放されないのだろうか。

 

なぜ、私は生まれたの。その問いに答えるのは難しいが、たとえば、こうした誰もがアクセスできる無料の食べものが存在する場所であれば、私はきっとこう答えられそうだ。君がこの世にただいるだけで、それがとてつもなく美しく、素晴らしいことだからだ。