あしたの畑
全ては希望となるため。
「あしたの畑」は、“畑”から始まる、食、器、祈りの場、住まい、交流の場をつくることで、美しい景色を生み出すことを目指します。
またそれは、そこでの人の暮らし方、人の知恵と技術がもたらす現代の美意識と哲学、次世代により良い社会を継承したいという願いを意識させる芸術活動であるとともに、美しい景色に出会える日本という風土が持つ豊かさを、アーティストや建築家、料理人、職人たちがともに思考し語り合い、共作、共存する機会でもあります。
芸術を通して希望に満ちた社会を築くために今をどう生き、各々がどのような役割を担い、行動に移すことで平和を目指すのか、を問いかける-アートと農作を含めた暮らし、この小さなきっかけに関わるひとりひとりの意識と実践が日本のある地域から始まり、世界中に広がればと願う、そのような試みです。
間人への道
アートの精神の伝承は、テキストがあるわけではない。人とのめぐり合いと経験、現場をつくることが、20年先、50年先にも大切にされる、愛されるものを作る責任であり、使命だと感じていた。日本の風土-自然と人との歴史と文化-が世界からリスペクトされる風景を、これからを担う世代の若者たちに委ねながらともに作りたい、それには歴史をもつ土地で、縄文時代を思い起こさせる豊かな自然と人の暮らしの原風景が大切です。
京都から奈良へ、和歌山へ、三重へ、滋賀へと旅をし、理想の土地を探し求めて、2020年の夏、京都の北、大成古墳群を訪れた。剥き出しの石室、5世紀ぐらいなのだろうか?海に向けてあらあらしく曝け出され組み合わされた石室は、海に向けて弔い、死後の世界を安らかにと願う人の気持ちが伝わってくるような景色だった。
地球で暮らし続けるとはどのようなことか?空や海や山という、子どもたちが安心して暮らせる地球の美しさを続けていくために何ができるのだろう?と考え始めた先に、集落構想「あしたの畑」が生まれました。
アートが社会で循環するには、人が感動する心を耕せる、集落がある。空と海がその祈りを受け入れるかのように、波が岬に押しよせては引く。ここ-間人(たいざ)と呼ばれる漁村に、アートの大切なものはすべてここにあり、ここから生まれると、ともに訪れた20代の橋詰隼弥と直感した。
徳田佳世
歴史
丹後半島-円には神話や伝承が数多く残ります。「間人」の地名は、聖徳太子の生母である間人(はしひと)皇后が、蘇我・物部の戦を避けてこの地に逃れ、後に大和に戻られたので「退座」と呼ばれるようになったという伝承や、聖徳太子の異母弟である麻呂子王の三鬼の退治にまつわる話も伝わっています。
また、舟屋で有名な伊根町には「徐福伝説」が伝わり、丹後半島には、日本海側で最大級の遺跡や古墳が残る。日本最古の鏡や水晶玉、ガラス製品など多くの渡来人による遺物が出土し、丹後国に強大な勢力があったことを示しています。
食
丹後半島は「へしこ」など魚の伝統発酵食品や海藻、間人カニをはじめとする魚介類が豊富で、健康長寿との関わりが注目されています。
また、米、古代米、有機野菜の栽培や酪農も盛んであり、地元の素材を独創的に仕立てる日本料理店「魚菜料理 縄屋」など、世界から食を目的に訪れる観光客などでにぎわいます。
丹後ちりめん
丹後は古くから織物の里であり、江戸時代に発祥した絹織物「丹後ちりめん」は、しなやかで染色性に優れ、友禅染などの着物の代表的な生地として、我が国の和装文化を支えてきました。
丹後は山・川・海がコンパクトに密集しており、丹後に流れる良質の水と年間を通して適度な湿度により、今も着物の生地の約6割を生産する国内最大の絹織物産地として育まれてきました。
それぞれの機屋が独自の展開を行うことで世界的なブランドが丹後の生地を活用し、これまでの和装の枠にとどまらない分野や商品が増えています。